下駄の歴史
下駄のルーツ   日本における下駄の出現
古代から中世   江戸時代
−服飾としての下駄−
明治から大正
−庶民のはきものへ−
  昭和初期から現在
松永下駄の製造工程    

  明治維新は政治体制を変えるとともに生活文化をを根底から変える大きな波の始まりであった。柱の一つに殖産興業があり、その中で下駄作りも大きく変容する。
それまで職人技として地域の材料で地域の需要に応える形で行われていた下駄作りに、機械を用いた大量生産化が導入される。この松永の場合、まず他地域から原材料を移入することが明治25年頃から、製材を機械化することが39年頃から始まっている。江戸時代からの漆器作りを生かした塗り下駄の静岡、桐下駄産地の香川県志度や栃木・会津、焼杉下駄の大分県日田など、後の大生産地はいづれも同じような道程をたどったものであろう。このことによって、江戸の「町人文化の華」という高級なものに大衆的なものが加わり、「日本のはきものといえば下駄」といえる広範な普及が実現したのであった。
 「新しい下駄は正月と盆しか買ってもらえなかった」とは、今も古老から聞くが、一年の大きな節目には新しい下駄をおろすことが習慣となりえるには、大量生産地が大きな役割を果たしてきたのである。また、それによって、「洋服に靴履き」は取り入れられはしても、庶民に普及するにはまだ時を待たねばならなかった時期、下駄作りは産業として隆盛期を迎えたのでもあった。

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